夜雨秋燈
丹穹

習作
やまなしおちなしいみなし
夜雨秋燈
ーーあめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎわたるみゆ...

どこかから伝わってくる唄い声を聞きつけて宿屋の外へ出る丹恒が見たのは、月の光を一身に浴びて古い歌を口ずさむ少年の姿がだった。

「穹?」
小声で呼んではみたものの、どうやらこちらに気づいたことなく、しばし悩んでは見せたのち、また歌を歌い出す。

ーーあめの うみに くもの なみたち つきの ふね ほしの はやしに こぎわたる みゆ...?

なぜか疑問形に聞こえる。

少年を驚かさないように、足音を出しつつ近づいていく。すると少年がこちらに気づき、闇の中で爛々と煌めく双眸に丹恒の姿が映る。
夜雨秋燈
「丹恒ぉ~~まだ寝てないのか?」
「それは、こちらの台詞だ。こんな時間にどうした?」

いつもの嬉しそうに自分を見つめる穹の笑顔にこっそり満足覚え、知らず普段よりも緩めた口調で聞き返していた。

「さっきの歌は、持明長調の一曲のようだが...もしかして歌の練習か?」
丹恒は故郷に関するあらゆる知識を持つものの、ほとんど体験したことなく、持明長調をこの耳で直に聞くのがこれが初めてだった。

「えへへ~~」

まるで月の光を吸い込んだ黄金色の瞳が瞬き、丹恒の姿を捉える。

「この前持明族の人に出会って、ちょーっと彼女の話を聞いて、そうしたらこの曲を教えて貰ったんだ! なんでも月が美しい夜に歌う歌のようだし、ほら、今夜の月が美しいだろう? それで思い出して、急に歌ってみたくなった!」
夜雨秋燈
「そうか」
「うん! でも、うろ覚えだからか、自分なりに歌ってみたけど、彼女のように歌えてない気がするな~~どこか間違っていた気がする。音程か、リズムか...どこでズレたのかも...」

少ししょんぼりして俯いた穹を見て、丹恒が少し考えて、また尋ねる。

「歌を、習いたいのか?」
「ううーん」

躊躇いなくすぐ否定した穹が、しかしやはり嬉しそうに空を見上げる。

「美しい夜だから、美しい歌を歌ってみたくなっただけ!」

なんとも穹らしい答えであった。

穹は常識として色んなことを一応知っているが、それらを実践しようとした時には壊滅的なセンスを見せる。生まれてまだふた月しか経っていないからか、精神的にまだ未発達で幼い一面を時折伺える。

そんな少年が戦い、成長し、自分の周りの世界を感知しながら応える。
夜雨秋燈
ベロブルグで博物館の経営に手伝った時も、芸術について良く分からないが、街のみんなが好く思い、価値があると教わったものを精一杯集め、職員の精魂込める解説を読み客の反応を窺い、満足げに笑って見せた。

そんなあどけない少年が今、美しいものに触れて、純粋な魂より生まれ出づるその自然な感情に応えようとしている。

丹恒はその幼くて清い魂を、どうやらかなり好ましく思っている。

視線を穹から離れ、空の満月へ。皓々と潔白な光を放つまん丸い月は、この歌には些か似合わないようだが、穹が初めて習い、気に入った歌だ。できることなら、美しいと感じるその気持ちに応えて欲しい。

そして、許されることならーー

深く、緩やかに、息を吸い込み、

「あめのうみに
くものなみたち
つきのふね
ほしのはやしに
こぎわたるみゆ」
夜雨秋燈
月が照らす静寂な闇の中、穏やかに、清らかに、丹恒の歌声が響き、再び静寂に溶け消える。

穹からして、丹恒の月夜に寄り添うような歌声が、彼女から教わったものとは、やはり違うもののように思ってならない。

だって、こんなにも、心に響く。
魂に響くのだ。

歌ってこんなにも美しいものだったのか? 美しい月さえも色褪せているような、儚くて、だが力強くて、渇いた魂に慈雨を降らすような、あまやかな雫だったとは、ちっとも知らなかった!

「...もう一度」

自分の声がかすかに震えている。無視する。丹恒の袖を掴む。いつもならこれでだいたいの我が儘は聞いて貰える。お願い。どうか聴かせて。もう一度、その歌を。

もう一度、その を。
夜雨秋燈
「今日はこれで終いだ」
「......えっ?」

しかし、あっけなく返されたのは、終わりを告げる音色。
月の光を湛える双眸に見つめて、袖を掴む手を自分から掴み、宿屋のほうへと軽く引いた。

「もうそろそろ寝ないと。」
「でも...」
「機会があったらまた歌って聴かせるから、」

穹の言葉を遮り、丹恒はあくまでゆっくりと穏やかな口調で言い聞かせる。

「今日はもう、寝ないと。」

こうなれば丹恒はこれ以上なに一つ曲げてくれないだろうと悟った穹は、口を尖らせながら丹恒の顔を窺う。

「丹恒先生~本当にまた歌ってくれる? 約束する?」 「ああ、約束する」 微笑んで見せる丹恒に、穹も潔く諦めてまた笑った。 「じゃあ約束! 寝る!」 大人しく丹恒について宿屋へ戻ろうとする穹の瞳には、もはや天上の光を映していない。
夜雨秋燈
暗闇の中で瞬く星のように光る双眸には、丹恒の姿だけが浮かび上がる。

その目を満足げに眺めてから、丹恒が穹を連れて宿屋へ入った。
やがて二人が割り当てられた部屋へと姿を消し、月夜が静寂に戻り、白金色の光が静かに大地を包み込む。
夜雨秋燈
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夜雨秋燈
本当は漢詩を使うべきだったけど、今書きたいから今知る和歌で書くしかない。だって今から漢詩を探したら書く衝動を逃してしまうだろう......!!

たぶん8年ぶりの習作でこんな時間だからあんまり時間をかけたくないので色々とまあ、とにかく大目に見て欲しい...
夜雨秋燈
ちょっと改修して支部に上げた。こちらはいつか削除するかも。ご閲覧ありがとうございます!
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