三倍速@冬馬黨中央政治局常委
ドルフスは1933年3月に議会を閉鎖し、政府命令による統治を開始する。そして1934年4月末に共和国憲法を新憲法(1934年憲法)へと「改正」し、普通選挙を廃した独特の「シュテンデ国家」を建設していく。シュテンデとはローマ教皇の回勅に基づくカトリック的な理念で、職能的中間団体を重視するものであった。
三倍速@冬馬黨中央政治局常委
笑死,馬上就提到
三倍速@冬馬黨中央政治局常委
ポピュリズムの定義の一つにしばしば「反エリート主義」が挙げられる。しかし、オーストリアの場合はエリートの側にある既存の与党がファシズム化したのであり、在野の運動が政権を獲得したイタリアやドイツとは大きく異なる。そしてポピュリズムという観点から1930年代のオーストリアを検討するならば、その担い手は与党の側よりもむしろ野党の側に見ることができる。しかもそこにはナチスによる「右派ポピュリズム」的主張と、社会民主党による「左派ポピュリズム」的主張が存在した。
三倍速@冬馬黨中央政治局常委
当時のナチス系議員の演説などを読むと、彼らはドイツにおけるヒトラーの独裁が「民意に基づく」ものであるのに対し、オーストリアにおけるドルフスの独裁は「民意を避けた」ものであると主張している。ドイツでの政権獲得の勢いに乗り選挙に勝利する自信があるので、ナチスは政府に対しひたすら解散総選挙を求めていった。
三倍速@冬馬黨中央政治局常委
オーストリア・ファシズムにおいては、普通選挙に基づく国民議会は廃止され、4つの予備協議機関と1つの議決機関に再編された。各予備協議機関で法案を議論したのちに、議決機関で採決する形である。予備協議機関のうち、国家評議会は大統領による指名制で、州評議会は州政府の代表が議員だったので、「シュテンデ」的と呼べるのは業種別の職能シュテンデ団体の代表からなる連邦経済評議会と、宗教・教育・学術など各種文化団体の代表からなる連邦文化評議会だった。つまりオーストリア・ファシズムは、ポピュリズム的な単一の人民に基づく支配というよりは、各種中間団体の利害関係者を通じて国民意志を把握する体制だったのである。
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